昔観て、ラストが印象的だったのだけを記憶していたが、具体的な内容を忘れていたので再見。途中でからくりは思い出したけれど、ラストは忘れていた。
う~む、ロートンの芝居は楽しめたけれど、デートリッヒが可愛そうで後味は少々悪い。
三回目くらいかな。
大昔に見たときにも、ミセス・ロビンソン(アン・バンクロフト)は十分に魅力的だったけど、今観ると、さらに若さを感じる。ああ、時の流れよ。
まだ艶っぽさはたっぷりで、ベン(ダスティン・ホフマン)が溺れるのもうなづける。
昔この映画のことをタイトルにした「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」というこの映画のことが全くわかっていない曲があった。ラストシーンは花嫁を奪えてハッピーエンドと喜んでいられる状況ではなく、ベンの不安気な表情はこれから二人が揉まれていくであろう世間の荒波を感じさせる。いっせいに振り向いているバスの乗客の視線はまだ保守的な社会の眼なのだ。二人はこの社会を家族の助け無しで生きていかなくてはならないのだ。ダスティン・ホフマンになれなかったことを悔やむような柔な男はなれなくてよかったね、なのだ。
今回印象に残ったのは、ベンとロビンソン夫人のベッドでの会話だった。昔の話を聞きたがるベン。夫人の学生生活や結婚のいきさつを根掘り葉掘り聞きたがる。芸術を専攻していたが、妊娠したことでその夢が破られたことを語る夫人。ベンには見えない向きで見せる自分の夢を追えなかった過去の苦い青春を思い出すときの夫人の切ない表情には心が締め付けられた。この後に描かれる夫人は悪者扱いだけれども、どこかで自分の青春を語るシーンを入れて欲しかったなぁ。
ヤマザキマリさんの本は、気が付くと読んでいるという感じ。ほぼ同世代ということもあり、昭和の話に頷かされることも多い。
とはいえ、彼女の経験は、やはり特殊で、ドラマの主人公を眺めている感じがする。この伸びやかな奔放な女性はどのような経験から生まれたのかに興味がわいてしまう。
この本を読むと、ホワイト化した現代の社会が本当に人間らしい生活の基盤になるのか考えてしまう。多様性とは、いじめや差別を包含しつつも人の心はそれに対する抗体を持ち、打ち勝ちながら生き延びていく世界のような気もする。痛みもあるが、痛みが無ければ理解できない喜びも生まれないのだろう。
コーダの意味を調べてみた。
コーダ(CODA, Children of Deaf Adult/s)とは、きこえない・きこえにくい親をもつ聞こえる子どものことを指す 。
この映画の素晴らしさは、このテーマをコメディとして、ありふれた青春映画に仕上げたことだと思う。ろうあであることの影を一切封じた演出は、逆に観る者の心に残る。かといって重苦しくはない。
学校の発表会の場面で音を消した演出もピリッと効いていた。あまりに軽すぎて両親がろうあであることを忘れてしまいそうになるところを、あらためて認識させられるが突きつけるようなきつさはない。
とにかく主人公を含めた家族の明るさが素晴らしい。
いろんな意味で励まされる映画だった。